夏の暑い一日

Ryo-hei2005-08-16

”人類の歴史は同時に戦争の歴史でありました”
 昨日で戦後60年を迎えた日本。全国各地で追悼式典が開かれ、9・11衆議院選挙を迎えた元・国会議員さん達もこの日ばかりはと、且つは望み、且つは望まずして英霊となってしまった方々に追悼の念を捧げた、2005年8月15日。60年前のこの日、生き残った兵士の方々は、目に無念の涙を浮かべ、歯をこれまでかとばかりに食いしばって、天皇の敗北宣言をラジオ越しに、ただただ聞いていたことでしょう。その日もきっと、蝉のうるさい夏の暑い一日。地面は湯気を吐き、これは夢だと思わせんばかり。
 過去3000年の人類の歴史のうち、全く戦争・紛争の行われなかったとされるのは、たった幾十年だということを、高校生の頃本を読んで知りました。その間何億人の方々が悲しみに暮れ、一体何のための戦争だったのかと地面に崩れ落ちたことでしょう。戦争も近代化していき、一気に何百人もの人を殺せるようになり、同時にその技術を活かし、今の便利な生活があるのも確かであり、その人口・出会いの歪みにより僕らが生まれることができたのもまた確かです。2つもの原爆を落とされた日本も、中国・朝鮮侵略時に生物兵器などの残忍な兵器を使ったとされています。
 望まずして戦地へ駆り出され、悲しむのを避けるため、友を作らないようにしていても、激しく苦しい戦場を共にしできた友人が、目の前で一瞬にして泥人形と化されても、なおも振り返らずに前へと進む、一兵士。止まれば我が身。背中でゴメンと心は泣き崩れた。止まらぬ涙で顔にへばりついた泥を落としながら、目の前の一体誰ともしれない、同じ境遇やもしれない異国人へと銃を向ける。打たねば、打たれる。
 しかし、彼もこんな戦争したくてきてるわけじゃないかもしれない。彼を待つ妻や子供がいるやもしれぬ。妻は子供の前では明るく、悲しみを微塵に見せず。こんな悲しみを子供に負わせたくない。子供は寝付いたはずだと、夫の写真にすがり泣き明かす。それを覗いてしまった子供の無知な視線。彼もそのうちわかる日がくるだろう。愛する者の最期の笑顔の儚さを。
 パンと放つ銃声と共に、自分の理性が空へと抜け出そうとしているのを感じる。自分はどうかしている。彼を待つ人々の最期の望みを断ち切り、彼らに愛する者の死亡通知を渡したのだ。それでも彼らは、今となってはなくなった望みにすがり、へばり、涙を流し、切に切に祈っているに違いない。自分は何を仕出かした。そしてこれからもこれを繰り返すのか・・・しかし、自分は悪くない。そうだ・・・自分は何も悪くない。いっそ、理性など捨てようか。狂気、凶気の夏の暑い一日。
 こんな人が何人もいたに違いない。もし生き残って、家へ帰れたとしても、もうまともな神経で生活をできるかも危ういのだろう。それでも繰り返して、繰り返して築く人類の歴史。それを僕らには止める力はないのだろうか。そんな世界に生まれてきたから仕方ないのだろうか。なるべく目を背けて通る方が正常なのだろうか。
 自分の父親は転勤族で2、3年に1度は転校していた。小学校1〜2年の時は長崎にいた。長崎は坂だらけで、しょっちゅうチャリでこけて、ワンワンと泣き見ず知らずのおじさんに家まで送ってもらっていた。まだ幼稚園にも通ってない弟が、勝手に外へ出てしまって、親も仕事で、一人探しに坂を下った記憶もある。
 日曜日は100円玉を握り締め、朝も早くからゲーセンへ”サムライスピリッツ”をやりに坂を下り、結局5分も経たずにまた坂を上った。スイミングスクールを通うのが嫌で顔をしかめながら坂を下り、ピアノ教室の帰りは日が暮れて真っ暗な坂を上る。
 そんな自分の小学校の裏庭には、防空壕があった。”あそこに骨が見える”なんてハナタレ小僧に脅され、ケイドロの時もそこだけは全速力で駆け抜けた。ちょうど校舎の影になっていて、1年を通して冷やりと涼しい。
 そんな学校に通学路でみつけた小さなイモリを持ち込んで、お道具箱に隠しておいたのに、女子にチクられ、”裸足のゲン”がおかれている図書館の横になくなく逃がしてやった。帰りに探してみたが、もちろんいなかった。
 夏休みに入ってしばらく経った、8月の中旬には登校日があって、はじめは学校の中庭の像の前に集まって。浦上天主堂やら平和公園やらを回った。浦上天主堂の前の公園ではよく遊んでいたが、その日ばかりはちっとも楽しくなかった。あそこにはよく鳩がいて、邪魔だった。スーファミのソフトを貸してもらう約束して、夜遅くまで待ってた記憶もある。結局彼はこなかった。平和公園の、平和の像は、平和の象徴の鳩の、平和な糞によって、平和に汚れていた。その周りには、おじいちゃん・おばあちゃんが写真を展示していたが、あの頃の自分には直視できない程の代物だった。白黒ってのが、さらにあの頃の自分の恐怖心を煽り、見たら夢に出てきそうだった。
 結局、その夏休みの登校日で習ったことはあまり覚えていないが、暑くて生生しい空気だったことはよく覚えている。できれば、もう二度と吸いたくないような空気だ。その頃の自分にはそれも、蝉のうるさい夏の暑い一日に過ぎなかった。