久米vsタマネギ −因縁の暁−

第一話”オニオニア”


 妖艶甘美なる夕日を直に人間などに見せるかと、べガルダ星人がいたずらに撒いた薄っすら静かなイワシ雲。ゆえに、人間の指す”夕日”はスペーススタンダートの”夕日”ではなく、あくまで人間の指す”夕日”止まりである。その差は漠然と歴然であり、もし人間がスペーススタンダートの”夕日”見たなら、彼らはそれを何と呼ぶだろう。

オニオニア。

 美と醜は紙一重であり、畸形は至極美形と思える久米には、その言葉がピッタリだと考えられた。

オニオニア。

 彼の最低最悪の敵・タマネギの英語形オニオン。それに久米の持ちうる美的感覚を注ぎこんだ結果、世界一、いやいや宇宙一彼にアドレナリンを放出させる言葉、

オニオニア。

 ”あ〜オニオニア、何たる言葉を僕は作ってしまったんだ。”そんな妄想に更けながら、雨空の中チャリで家路を急ぐ久米。もちろん真の夕日はおろか、肉塊の何億人が思いを馳せた罪な偽・夕日すら見えない。宇宙裁判にこの夕日を裁かせたなら、この罪は”ブラックホール監禁10兆光年の刑”だろう。

 傘の雨露を払い部屋に駆け込む久米。日曜の18時09分。おもむろにテレヴィを付け、ジャケットを放り、ベットに腰掛け大きな丸い空気の塊を吐く。気まぐれに目を机に落とすと、今日は携帯を家に忘れて行ってたことに気づく。なくたって構わない。いっそのこと、真っ二つに折り、隣のクソうるさい犬に投げつけた方が価値があるってもんだ。

 少なくとも3週間前まではそうは思っていなかった。逆。久米にはなくてはならない、現代の神器であった。電波に思いを乗せ、練馬に住む恋人から返ってくる01信号を今か今かと待ちわびていた。今ではバカバカしく思えるものの、その時は久米は恋をしていたと胸を張って言えた。”慣れ”によってその感情を遠くに飛ばされ、突然の別れを告げられたものの、自分の人生でその期間ほど生き生きと”生きていた”のは間違うことのない事実だった。なんで、あの時Y軸マイナス方向に彼女の”熱量”が離れていってるに気づかなかったのか。あるいは、どこまで自分が自信過剰でそれを安心して見つめていたのか。

 憎きは自分の曇った先見の眼。

 兎にも角にも、今は久米はその期間を検証できるほど落ち着いていた。しかし、これは”サイクル”の一環であり、またひどく取り乱す時期は必ず来る。このサイクルの直径が小さく小さくなるまでそれは続く。そして、それが点に見えるほどに微々たるものになった頃、領域にまた一つの要素が加わる。そうしたい、また、そう思いたいものだ。

 そう思いながら久米はまた一つ丸い玉を吐く。

 テレヴィは”ちびマルコちゃん”を映し出していた。久米はひどくそれに出てくる”ナガサオ君”が嫌いだ。無論、それは彼の顔の形がタマネギに見えるからである。それほど、久米はタマネギが大嫌いなのである。人には言ってもわからないだろうが、久米の細胞がタマネギを拒んでいるのだ。その結晶である久米は彼らの拒否反応により特殊な力を得ていた。タマネギという情報が、耳から舌から目から空気から認知されると乳首が立つ。忌まわしき能力である。

 最近”ナガサオ君”以上に気に食わないものが久米にはあった。”蒸すカリン”という男の歌う”お野菜サンバ”という曲である。初めてその曲を聴いた久米は一瞬にして無限遠方に飛ばされた。



第2話に続く・・・